2019年 03月 10日
ザ・デストロイヤーの死に思う・・・
ザ・デストロイヤーさんが亡くなりました。
彼はもともとアマチュアレスリングをやっていて
プロに転向。
あまりハンサムでは無かったため、プロモーターに勧められて
白いマスクをかぶり、悪役レスラーとして活躍しました。
特にロスを中心に暴れ回り、当時ロスにあったWWAのチャンピオンでもありました。
力道山がハワイと、日系人が多いロスをアメリカでの修業先に選んだ事から
交流が出来、旧日本プロレスにも頻繁に来るようになりました。
何と言っても彼の名声を日本で不動の者にしたのは
力道山との一戦。必殺足4の字固めをかけたままリングサイドに落ち
絡まってとれなくなった・・・と言う写真が 旧両国国技館の天井カメラで撮られ、
翌日新聞各紙に掲載された、例の一戦です。
あれは日テレで視聴率64%を記録しました。
45~65歳ぐらいの人は 足4の字固めをかけられるでしょうし、
かけられたこともあるでしょうし、『反転すると自分が痛い』というギミックも
よくご存知でしょう。
その頃は流血試合も辞さない、大悪党だったのですが
彼はよほど日本が水にあったのか?その後麻布十番に定住して
G馬場が立ち上げた全日本プロレスに全面協力する事になります。
1974年頃には全日本プロレスの親会社
日本テレビの土曜10時の「うわさのチャンネル」で
『おい!デスト!』とゴッドねぇちゃん 和田アキ子にどつかれる役を
コミカルに演じて 大人気になりましたね。
私もそこは薄ぼんやり覚えています。
(かなりの低俗番組でしたし、当時は3~4歳の子供に土曜10時のテレビを
見せる風習はありませんでした)
あれは当時はかなりプロレスファンには非難されたそうですが
本人は「とても楽しかった」と振り返っています。
もちろん、旗揚げ時にすでにジャイアント馬場は全盛期を過ぎていて、
かたやライバルアントニオ猪木が モハメド・アリと戦うなど絶頂期を迎えていた
新日本プロレスに対抗するために、日本テレビが要請したという事は言うまでもありません。
ザ・デストロイヤーは義理堅い男でしたから、力道山と戦った事で
彼と信頼関係が出来たので、その愛弟子、ジャイアント馬場をきちんと支えていこうと
決めたのです。
そして もともとはアマチュアレスリングの猛者ですから、
道場で若手や外国人レスラーに対して指導をする立場に回るのです。
のちにWWEで殿堂入りすることになる
かの”浮沈艦”スタン・ハンセンが新日本プロレスでアントニオ猪木と出会う前、
まだ業界に入りたての頃、全日本プロレスにやってきて、
ただのアメフトの兄ちゃんが、デストロイヤーに手玉に取られる試合が残っていて
私も見たことがあります。
新日本プロレス道場で アントニオ猪木以下を鍛え上げた”神様”カール・ゴッチは
とても有名で、その後のプロレス&総合格闘技界に巨大な足跡を残しましたが
実はデストロイヤーも非常に日本のプロレスに大きな足跡を残していると言えます。
悪役レスラーというのは特殊な仕事で、観客からすると悪行三昧をして
ずるいことばかりする酷い人達・・・という風に見えますが、
裏から見ると・・・
悪役レスラーが試合の流れを、『観客が盛り上がるように』積極的に
作り上げて、ハンサムなエースレスラーはそれに付いていく・・・と言う役割である
事が分かります。
つまり、プロレスという演芸形態において、ネタを書いているのは悪役レスラーで、
ハンサムはそれにリアクションやツッコミをする事で成り立っていると言えます。
その意味でザ・デストロイヤーは本当に名優であったのでしょう。
彼は引退後も麻布十番に住み、(アメリカにも家がありますが)
夏の十番商店街のお祭りでは毎年出店を出して 2000年代まで地元の人と交流して
いました。
私も見かけたことがあります。本当に日本が水にあったんでしょうね?
亡くなる3週間前まで『日本に行く』と言ってスクワットをしてリハビリしていた
そうです。
昭和を代表する名優のご冥福をお祈りいたします。
by AWAchampion
| 2019-03-10 05:03
| プロレス界展望
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