2019年 03月 12日
流浪の演出家人生
なにしろ 「時間ですよ」「寺内勘太郎一家」の巨匠 久世光彦の弟子ですからね。
まあ30番目ぐらいの弟子ではありますが、弟子は弟子です。
入って1年間はじっくり助監督として働きましたが
その後は かなり早くからテレビドラマではない部門で
ディレクターになりました。
その後 実は私が久世門下を離れる時
久世さんは私を、とあるテレビドラマチームの助監督に戻そうとしたのです。
そこで、私の人生の分かれ道が来ました。
私はその時 既にセサミストリート日本版への参加が決まっていました。
そこで初めて私は師に長い手紙を書きました。
内容はもうそれほどキチンとは覚えていませんが、
「私は師に教えていただいた事を活かして 外の世界で腕を試してみたい。
せっかくのご厚意ですが、辞退させていただく無礼をお許し下さい」的な内容でした。
師はそれを読んで一言・・・
「おい、倫太郎。お前これどのぐらい時間かけて書いた?」とだけ聞きました。
本当は30分ぐらいで書いたのですが、
「に、2時間ぐらいです。」
「うむ」
それが師との最後の会話になりました。
その後私の人生は激変しました。
「セサミストリート日本版」の演出家をやることで私は【パペットショー】という
特殊な番組の専門家を名のる事ができるようになり、
子ども番組ディレクターとして旗を掲げました。
他にも【囲碁の解説番組】【音楽劇や前衛ダンスの舞台収録】
と言った、変わったジャンルの演出もドンドンやるようになったのです。
そして昨日
民放ベースのテレビマンならまずお目にかかることのない
【オーケストラの音楽収録】というものも加わりました。
いや~これはこれで 思った以上に勝手が違って大変でした・・・。
まさに流浪の演出家人生。
しかしまあ、せっかくテレビマンになったのでいろんな事をやりたい
というのが私の考えですし、大変ですけど楽しいです。
ですから特に後悔などはなく、むしろ私が歩んできた道の
曲がりくねり方にはちょっとした誇りを持っています。
でも、もし私があの時、師・久世さんの言うことを聞いていたら
どんな人生が待っていたんでしょうか?
その後 当時全盛だった二時間ドラマ枠が激減して、フリーの助監督は
相当淘汰されました。
ただ、その時には無かったテレビ朝日やテレビ東京の連ドラ枠が
今や賑わいを見せているので、もしかしたらどこかの会社でテレビドラマの
演出家になっていたかもしれません。
はたまた、一旦ディレクターになった後に
再び助監督を10年近くやることに耐えられず、ドロップアウトをしたかも知れません。
そう考えると、あの2004年の冬の日を思い出さずにはいられないのです。
by AWAchampion
| 2019-03-12 03:32
| Diary
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